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サントリー美術館
サントリー美術館
東京都港区赤坂9-7-4 :六本木・東京ミッドタウン ガレリア3階
「東京ミッドタウン」 21世紀の日本を代表する街、世界に類を見ない独創的な街が誕生しました。


Celebrating Two Contemporary Geniuses : Jakuchu and Buson

生誕三百年
同い年の天才絵師 若冲と蕪村

伊藤若冲 & 与謝蕪村

 正徳6年(1716)は、尾形光琳が亡くなり、伊藤若冲と与謝蕪村というふたりの天才絵師が誕生した、江戸時代の画壇にとってひとつの画期となりました。
 伊藤若冲(享年85、1800年没)は、京都にある青物問屋の長男として生まれ、23歳の時に家業を継ぎますが、30代中頃には参禅して 「若冲居士」 の号を与えられ、40歳で隠居して絵を描くことに本格的に専念します。 一方、与謝蕪村(享年68、1783年没)は、大坂の農家に生まれ、20歳の頃に江戸へ出て俳諧を学びます。 27歳の時、俳諧の師匠の逝去を機に、北関東や東北地方をおよそ10年間遊歴します。 その後40歳頃から京都へうつり俳諧と絵画のふたつの分野で活躍しました。
 若冲は彩色鮮やかな花鳥図や動物を描いた水墨画を得意とし、蕪村は中国の文人画の技法による山水図や、簡単な筆遣いで俳句と絵が響き合う俳画を得意としていました。 一見すると関連がないようですが、ふたりとも長崎から入ってきた中国・朝鮮絵画などを参考にしています。
 本展覧会は、伊藤若冲と与謝蕪村の生誕300年を記念して開催するもので、若冲と蕪村の代表作品はもちろん、新出作品を紹介するとともに、同時代の関連作品を加えて展示し、人物、山水、花鳥などの共通するモチーフによって対比させながら、彼らが生きた18世紀の京都の活気あふれる様相の最も輝かしい一断面をご覧いただきます。


会期: 2015 3/18(水)〜 5/10(日) 展覧会は終了しました。
休館日:毎週火曜日 ※5月5日(火・祝)は20:00まで開館
開館時間:10時〜18時
※金・土、および 5/4(月・祝)は20時まで開館
※4/25(土)は〔六本木アートナイト〕のため24:00まで開館
   ※いずれも入館は閉館30分前まで ※shop x cafe は会期中無休
※作品保護のため、会期中展示替を行ないます。

会場:サントリー美術館 六本木・東京ミッドタウン ガレリア3階



画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

「若冲と蕪村」展

生誕三百年 同い年の天才絵師
若冲と蕪村展
プレス内覧会 '2015 3/17
サントリー美術館


正徳6年(1716)は 伊藤若冲と与謝蕪村 が誕生し、
江戸時代の画壇にとって、ひとつの画期となりました。

「展示構成」
―本展覧会 「News Release No. sma0008」 および 「若冲と蕪村」 図録より抜粋して掲載しています―

「展示構成」
第1章 十八世紀の京都ルネッサンス
第2章 出発と修行の時代
第3章 画風の確立
第4章 新たな挑戦
第5章 中国・朝鮮絵画からの影響
第6章 隣り合う若冲と蕪村――交差する交友関係
第7章 翁の時代


第2章 出発と修行の時代

第2章 出発と修行の時代
 若冲は、最初に狩野派の絵を習い、その後、相国寺などの大寺院が収蔵する中国・朝鮮絵画を鑑賞し模写しながら勉強しました。 また実際に生きた姿を観察できる鶏を庭に放ち、その動きを写すというように写生を重視した作品を描いていきます。 これに対し、蕪村は20歳頃に江戸で俳諧を学びますが、俳諧の師匠の逝去をきっかけに、浄土宗の僧侶として北関東から東北地方を約10年間放浪します。 その間に描いた作品は当時の狩野派などの技法とは異なる個性的な描き方をしています。

・23左側 《田楽茶屋図屏風》 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 6曲1隻
江戸時代 18世紀 128.0x288.6 個人蔵 〔展示期間〕終了
茶屋の店先と、その前を往来する人々を描く。 本図の人物描写については、元禄時代を中心に活躍した絵師・英一蝶(1652-1724)筆の 「田楽を買い食いする奴たち」 のなかに、同じポーズをとる人物が認められる。


第4章 新たな挑戦

第4章 新たな挑戦
 若冲の水墨画の中で特筆すべきは、筋目描きの技法による作品群です。 こらは画箋紙とよばれる紙の吸水性の強い性質を利用し、隣り合った墨が混じることなくその境目が筋のように白く残るのを活かした描き方で、筋目を使って龍のうろこや菊の花弁などを表現しました。 一方、蕪村は発句と絵をひとつの画面に描き、それぞれが響き合う俳画という新しい分野を開拓しその第一人者となりました。 若冲と蕪村いずれもが、従来の作品に満足することなく、新しい技法に挑戦し続けていた様子がうかがわれます。

・103 《奥の細道画巻》(部分) 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 1巻
江戸時代安永7年(1778) 28.7x1843.0 海の見える杜美術館 〔展示期間〕4/15〜5/10
芭蕉の「奥の細道」を蕪村が全文を筆写し、俳画風の挿絵を添えた画巻である。 挿図の内容は、旅立ち・那須野行・須賀川の隠者・佐藤庄司の嫁の像…など十三場面である。


第6章 隣り合う若冲と蕪村――交差する交友関係

第6章 隣り合う若冲と蕪村――交差する交友関係
 蕪村は晩年、若冲の住む京都の四条烏丸近辺に居を構えました。 現在のところ、若冲と蕪村の直接の交友関係を示す作品や資料は確認されていません。 しかし同じ禅僧や学者がどちらの絵にも賛をしており、上田秋成、丸山応挙ら共通した知人と交流があったことは確認されています。 ここでは若冲と蕪村が交流していた人物たちとの合作や賛のある作品を紹介します。

・152最右側 《売茶翁像》 伊藤若冲筆 高遊外賛 絹本墨画 1幅 江戸時代
宝暦7年(1757)賛 93.3x41.6 〔展示期間〕終了
黄檗僧・月海元昭(売茶翁、1675-1763)が橋の上で天秤棒を肩に担いで涼炉と茶壺を運ぶ姿を描いた作品。画面上には売茶翁自身の筆による賛がある。
・157中央 《寿老人図》 与謝蕪村筆 無染浄善賛 紙本墨画 1幅 江戸時代
宝暦12年(1762)賛 103.4x39.4 〔展示期間〕終了
蕪村の描いた寿老人図の上に、黄檗僧の無染浄善(1693-1764)による賛が記される。浄善の署名から、浄善70歳(1762)の賛とわかる。



『伊藤若冲と与謝蕪村』―近い住まいと異なる天才   辻惟雄(MIHO MUSEUM館長)
―ブレス説明会 & 「若冲と蕪村」図録からの抜粋文章―

…若冲と蕪村の名は、ともに同時代に刊行された、地方から京に遊学する人達のガイドブックであった人名録 『平安人物志』 の 「畫家」 の項に載っている。 『平安人物志』 の人名配列から若冲と蕪村の二人が、当時(1768年、53歳〜1782年、67歳)、応挙、大雅に続く京の有名画人であったことが推察できるのである。 また、『平安人物志』 に掲載された蕪村の居所は、若冲の住まいから歩いて10分足らずの近くにあったことは間違いない。 二人はお互いにその存在と活躍ぶりを熟知していただろう。 それでいながら、二人の間には不思議と交際の記録がない。…風景、人物、花鳥、俳画、いずれの分野にも長けた蕪村の多才ぶりにくらべ、若冲のレパートリーはもっぱら花鳥に絞られており、人物、風景は稀である。…享保16年(1731)長崎に来日した沈南蘋は、花鳥画を得意とした職業画家で、彼に学んだ日本人画家が南蘋流を江戸や京に伝え、… 蕪村も南蘋風をニューモードとして取り入れており…若冲の花鳥画は、沈南蘋だけでなく、同じ時期に長崎にもたらされた花鳥画の新画風 「長崎流」 に加え、…当時京都の寺院に伝わっていた元・明の花鳥画・草虫画の模写からえるところが大きかった。…今回の展示は、画家若冲と画家蕪村との顔合わせという観点に絞ったため 「文人の人」 蕪村を、以前の展示のように示すわけにはいかなかった。 そのかわり、新出・末紹介の優品珍品のかなりをお見せする。…

伊藤若冲(1716-1800) 関連年表から抜粋

 

与謝蕪村(1716-1783) 関連年表から抜粋

1716( 1歳) 京都の青物問屋 「桝 屋」 の長男として生まれる。
1738(23歳) 父宗清没(享年42)。4代目桝屋源左衛門となり家督を相続。
1747(32歳) 梅荘顕常、「大盈若冲」 を含む句を、高遊外(売茶翁)の水差しに記す。この頃、黄檗僧鶴亭が上方に南蘋派の画風を広める。
1752(37歳) この頃から、梅荘顕常と交わるか。 「松樹番鶏図」(所在先不明) この年すでに「若冲居士」と号す。
1755(40歳) 次弟宗巌(白歳)に桝屋の家督をゆずって隠居。 「月梅図」、「猛虎図」を模写した「虎図」を描く、「旭日鳳凰図」
1760(45歳) 梅荘顕常や池大雅らと京郊外の梅をみる(翌年か)「花鳥蔬菜図押絵貼屏風」、「四季花鳥押絵貼屏風」、「動植綵絵」、「髑髏図」
1770(55歳) 父親の33回忌にあたり、自分と父母の戒名と、「釈迦三尊像」「動植綵絵」の寄進が完了したことと、永代供養に宿願を刻した位牌を相国寺に寄進
1775(60歳) 『平安人物志』の画家の部に載る。住所は高倉錦小路上ル町
1788(73歳) 天明の大火により居宅と画室を失う。相国寺も焼亡
1793(78歳) この年までに石峰寺に隠棲。 平賀白山『蕉斎筆記』に若冲に関する聞き書きを記す、「六歌仙図」。 桂州道倫、「河豚図」に賛する
1800(85歳) 「諸家寄合膳」のうち「梅図」、「松尾芭蕉図」、「霊亀図」、4月池大雅の25回忌を病を理由に欠席。9月10日没

1716( 1歳) 摂津国毛馬村(現・大阪市都島区)で生まれる。
1735(20歳) この頃、江戸へ出る。
1742(27歳) 師巴人の歿後、江戸を去って下総結城へ。その後、北関東・東北地方の各地を約10年間、浄土宗の僧侶として放浪。
1744(29歳) 宇都宮にて初撰集 『寛保四年宇都宮歳旦帖』 を編集、この時初めて「蕪村」号を用いる。
1751(36歳) 木曽路を経て京へ上がる。 毛越編『古今短冊集』 に発句一および跋文を寄せる。
1757(42歳) 鷺十の閑雲山真照寺にて「天橋立図」を描く、 丹後与謝から京に戻る。 帰洛後、氏を与謝と改める。
1760(45歳) 「維摩・龍・虎図」、「倣王叔明山水図屏風」、「双馬図」など、この頃、結婚するか。
1770(55歳) 師である宋阿の夜半亭を継承する。几董が入門。室町通綾小路下ル町に転居 「明師言行図屏風」、「黄石公・王猛図」。 三果社中句会を夜半亭社中句会と改める。
1778(63歳) 几董とともに大阪・兵庫の弟子たちのもとを訪れる。「山林曳駒図」「野ざらし紀行図屏風」「奥の細道画巻」「寒山拾得図」、「謝寅」という画名の落款を用いる 「奥の細道図巻」「寒林孤亭図」
1783(68歳) 晩秋から初冬にかけて、持病の胸痛に悩む、12月未明没


お問合せTel:03-3479-8600
サントリー美術館公式サイト:http://suntory.jp/SMA/
主催:
サントリー美術館、読売新聞社
協賛:三井不動産、サントリーホールディングス


参考資料:NEWS RELEASE No.sma0008、「若冲と蕪村」図録、他
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